Memorial ConferenceVあなたの体験 DRS
Memorial Conference in Kobe V 〜 あなたの体験

1月17日5時46分阪神大震災 −そのとき私達は−
亀井 薫

 『グラ!グラ!グラ!』『パパ!地震』といってフトンをかぶり、腹這いになり、主人の方に寄り、頭を主人と並べたというより頭をつけたその時、『グル、グル、グル、ガシャン!』。少し長いぞ、やっと止まった。体を持ち上げられた感じ、地面に叩きつけられた感じ、そして、私が最初にいったのが『きりもみ状態』。そういったら近所の方も同じ言葉で表現したのを聞いて、「あぁ、自分の表現に間違いはない」と思った。
−このゆれている間−あぁ蛍光灯が落ちたかな?−ガラスに気をつけなくては−早くサッシの戸を開けなくては・・・・−
 地震の揺れは止まったが、私のからだの下半身が動かない。薫『パパ動ける?』主人『動けない』薫『私のうえに何か乗っていて、どうしても動けない』主人『ぼくの上にもなにか乗ってる。動けない』薫『私の足はつぶれそう。パパ体をもじもじして出て』主人『よし!出られたぞ!』薫『早く廊下のサッシを開けて』主人『そんなものあるか』
−私達が寝ている部屋は6畳。南側に廊下。間は硝子障子。廊下の南側はサッシの戸(ガラスが厚いため重いぐらい)その南に庭。洗濯物を干すため、物干し台が二台ある。2.5mぐらい南はブロック塀になっている。
私には主人が何を言っているのか理解できない。アルミサッシも、大工さんが台風にも大丈夫と言ってくれた硝子の厚いのにしていたのに、それが全く飛んでいってしまうなど想像もつきません。真っ暗な中で、首を持ち上げても何も見えない。私の右足の膝下が圧迫されて潰れそう・・・・−
 『とにかく助けを呼んで!』『助けて下さい!亀井です。助けてぇ。下敷きになった。助けて下さい。』主人『助けて!助けて!誰か助けて!亀井です』そのうちにあちこちから『助けて!』の叫び声がする。主人の声は迫力がない。きれいな声で透き通る。もっと、ドスのきいた声で叫ばなくては。薫『もっと大きな声で呼んでよ!』
 主人も精一杯の声を出している様子だが、何と言ってもアナウンサー希望の主人の声、こんな時には間に合わない。私の声の方が大きいはずと、首を持ち上げ、私は腹の底から『助けて下さい亀井です!』と叫び続けた。しかし、だれの返事もない。主人『近所中が、やられているらしい。だれも来てくれないよ。ぼくが瓦を除けようか?』と一枚ずつ瓦をはずす。薫『ピアノの方に投げてよ』私は首を亀のように持ち上げて、目を剥いて主人に指示をしていたようだ。
 瓦を除けても、その下に1.5cmもの厚さのベニヤ板・・・・瓦で叩いたって壊れない。屋根も三年前に新しくして、天井も張り替えたばかりで痛んでいない。時間は5時30分にトイレに行って来て、また、フトンに入ったのだから、6時にはなっていないと思う。この近所は年寄りも多いので早起きだ。しかし、火が出れば焼け死ぬかも知れない。主人に『火が出たら逃げてね』と言ったものの自分も一緒に逃げたい。でも足が動かない。  「あぁ、これで終わりかな?」主人は頭を私の右脇に突っ込んで一緒に持ち上げようと言う。『駄目!止めて!そんなことで動く筈がない。パパが怪我をするだけよ』この間に何分たっただろう。10分ぐらいかな。いや、もっと長く感じた。

 そのうち、南側のベルドール大開(1LDK)に住んでいる男性達が階段を降りて我が家のブロック塀を乗り越えて来てくれた。『落ち着いて!落ち着け!瓦をはずそう。奥さんはどっちに体がある?』『頭から真っ直ぐ北東の方に』私は頭だけ出ている様子。私の上に大きな桜材の洋服ダンス。中には冬物が一杯詰めてある。その上に屋根が乗っているようだ。
 その時、塀の方で『亀井さんガンバッテネ!』と言っている声が聞こえた。誰だろう。西側の二階の山下さんが窓から脱出できたんだな(先に出たことに腹が立つ。でも、私のところにも助けの人が沢山来ている。あぁ、助かるかな?)
 懐中電灯を主人に持たせ、若い人達が瓦をはずし始めた。『オッサン!どこを照らしてる?こっちや!こっちや!』薫『パパ皆の言う通りにして』あの人なにしてるのかしら。困ったものだ。あとで主人にどこを照らしてたの?と聞いたら『今まで大声を出していたママが急に声がしなくなったので、死んだのかと思ってママの顔を照らしたんや・・・』
 実は、私は助けの人が来たので安心したのと、体力の消耗を防ぐために声を出さないようにしたのと、救助の仕事の邪魔になってはと思い、黙って足の痛みに耐えていました。
 『頭にフトンを被って!』『ハイ!』とフトンとその近くに飛んで来ていたニットのスカートを頭からかぶり、じっとしていた。ときどき『足が潰れるよう。早くしてぇ!』と言いながら。数人が屋根を持ち上げてもビクともしない。『洋服タンスの中身を出そう』とタンスの裏側を破って中身を出した。少し足の痛みが減った。私を引っ張ったが私の体は動かない。ガッカリ。また、瓦の除去。『誰か二三人来てくれ!』と人を呼ぶ。今度は屋根を持ち上げ、男性二人が両脇から引っ張った。ほんの少しの足のゆるみを感じて私が『引っ張って!』と叫び、一、二の三で出してもらった。足のズルムケも覚悟の上で私はペシャっと座った。そして、空が見えた。家がない。廊下もない。私の足は麻痺していて、膝は痛くて、立つことができない。
 『おばさん立てる?』『骨は折れてないと思う。立たせて』『いい。ぼくがおぶってやる。絶対に離すなよ』男性が背におぶって、塀まで2m強のところをサッシと物干し棒を伝わって連れて行ってくれました(この人とは後日逢いました。まだ22〜23歳でしょうか、若い子でした)。塀の下に、女の人が待っていてくれて、また、助けてくれました。
 そのとき、我が家の大屋根の上に女性が2〜3人見えました。勇気のある女性が手助けしているのかと思ったら、お向かいの奥さん達で、私の出るのを待って救助されたとか。
 お向かいの家は、我が家の大屋根に4軒が倒れ掛かって2階の窓が屋根の前に並んだので出られた様子。1階の人々は、つぶれた家の下で、2〜3時間後に救出されました。
 マンションの廊下で、フトンの上にみんな肩を寄せ合って、休んでいました。次々に、出てくる人と無事をよろこび、まだ下敷きになっている人を捜し合っても、助けることもできず、ただ、娘の来てくれるのを待っていました。
 娘の家は、昨年8月新築したばかりで、1階を車庫にしているため、揺れ方も割りと少ない。私の家より北西へ3キロ弱。徒歩27分のところです。娘はまさか実家が潰れているとは夢にも考えず、家が古いので余震が来ると危ないから、自分の家に連れてくると言って出たそうです。私の家に近づくにつれて、被害の大きさに驚き、全壊した家に近寄ることができず足がすくむ思いだったそうです。『亀井さん!お母さん出したよ』『もう一本東の道をまわって行きなさい』と屋根の上の近所の方が知らせてくれた。道は、家が崩れて来て塞がれている。遠回りして、ガレキの上を乗り越えてマンションの入口に来た。私も主人もパジャマ姿。主人に娘の上着を掛けて、娘の靴下を一枚、主人に履かせて、私は、靴と靴下を借りて、娘の家へと出発。まるで乞食です。自分では、しっかりしている積もりでも、何とも情けない姿。そして、寒い。


 倒れた家の端に、血を流した男の人や老人が寝かされている。救急車も来ない。もう、火の手も上がっている。消防車は走っているが、現場では水もなく消防士も立って見ているだけ。空は薄暗く、しかし、曇っているのではない。煙りで神戸の空は夕方のよう。
 警察のパトカーは走っているが何の役にも立たない。私もパトカーに近づき『四番町一丁目で生埋めになっています。助けて下さい』と言うと『今自衛隊に要請しています』結局、近所の人達で救出するより他はないのです。私の家の前のマンションの方々は近所の人々との交流もなく、挨拶もしたことのない人達でしたが、今回は、皆で呼出し合って救助に出てくれました。感謝の一語に尽きます。
 娘の家では電気がつき、テレビも映っていました。東灘の情報が多く、フトンにくるまってる人がテレビに映るたびに、「長田を映して!フトンを持ち出している人は、家のある人。もっと西の方を映してよ!」と怒りに震えましたが、実は西の方まで報道が入るにはもっと時間が掛かりました。ヘリコプターの来訪には、その風のために火が噴き上がり、火災が強くなり困ったようです。
 私は考えました。「時計を腕にして、眼鏡は掛けて、お財布は紐を付けて足にくくり、重要書類は腹に巻き付けて、夜は眠るべきだ。しかし、脱出のとき、すべて引っ掛かって、はずれてしまう。あぁ、だめだ!何の用意も何の役にも立たない」と捨てばちな考え方が頭の中を駆け巡り、『自殺者が出るよ』などと口走り、しばらくの間は自分も自暴自棄に陥っているようでした。
 自分がこれからどうして生きていけばよいのか考えることも出来ず、頭の中が真っ白とは、このことかと思いました。私が落ち込めば、主人が『そんなこと考えても仕様がない。やり直しするよりないさ』と強がりを言い、私が頑張ろうと思うと主人が落ち込み、機嫌の悪いこと。一晩目は一睡もできず、つぎの夜はウトウトできても、皆の眠ったのを確かめると、急に泣けて、一晩中泣き続けました。4〜5日後に、娘のところの電話が復旧し、親類や友人からの励ましの電話・・・・・どれだけ私の力になったことでしょう。皆様に助けられ、やっと立ち直り、元気を取り戻して、昔の私になりました。いま、主人と二人、新しい生活に向かっていることが不思議にさえ思われます。四番町一丁目でも12〜13人の死者を出しました。

 いまでも、長田区は、家の片付けなどでとても空気が悪く、口の中が気持ち悪くなります。私の家も、まだ、解体されていません。五月ごろになるでしょう。家の中のものはどうなっていることか・・・・なにかひとつでも出てくれるといいなぁと考えています。
 『いのちが助かったのだから、品物はまた買えるから、あきらめなさい』と娘に言われるのですが、やっぱり思い出の多い品物をひとつでもいいから取り出したいと思うのは私の欲でしょうか。


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター