Memorial ConferenceVあなたの体験 DRS
Memorial Conference in Kobe V 〜 あなたの体験

証言
劉 佩青

 1999年9月21日、台湾で死傷者2000人以上出した大地震が起きた。地震直後リダイヤルを繰りかえし、ようやく翌日に電話が通じた。「全員は外に逃げ出したから、大丈夫だよ。それに後の壁がなくなって意外と明るいね。」とハイテンションでしゃべってくれた弟の話を深く考えずに安心して、地震から3週間後帰国することにしたら、「どこが大丈夫といえるのか」と震災の重大さに対する認知のずれを思い知らされた。被災地に近づけば近づくほど建物の被害がひどくなり、懐かしい子どもの頃の思い出は瓦礫の増加とともに次々と浮かんでくる。記憶にあるものをなくすことがこんなにつらいと思わなかった。震災の街の情景は今も瞼に焼き付いている。バス停の待合室の屋根が地面にある。周りに散らばった破片と瓦礫は、多分、窓と柱だっただろう。よく遊んでいた一面青々とした公園はテントに埋まっていた。その向こう側にあった庭付きの家も建物と断言できないほどにコンクリートと鉄筋の塊と化けた。
 空港から家までだいぶ時間がかかった。道が地震によって壊れたため、遠回りしなければならなかった。人間は、目の前にある情景に圧倒されると、泣くより先に笑ってしまう。倒れた家具を除けて寝る空間を確保するお父さんの姿、半開きしたドアの近くに小さい机を囲んで食事をしている家族の姿をみて阪神大震災で被災した藤田先生の言葉を思い出した。被災地の「大丈夫」は「命が助かった」の意味で、ソトの人が思っている「元の生活に戻った」ではない。目の前の情景と電話の「大丈夫」の答えが作ったイメージとの落差に私は苦笑いしかできなかった。
 本震が恐いが、余震を待つのはもっと恐い。また来るだろうと分かっていながら、いつ来るか分からない。「恐怖を抱えたまま布団に入る日数の世界最高記録は何日だろう」という妹の言葉に笑った。余震に対する恐怖が生活リズムに変化をもたらす。些細な音にも神経を尖らせる。夕刊がドアに投げられた音にびっくりして慌てて外に逃げ出したお父さん、夜中にお父さんが体の向きを変えた振動を地震と錯覚して悲鳴を上げたお母さんの声などすべて笑い話の材料となっている。笑い話ができるならもう大丈夫だろうという人もいるが、そうではない。すべてを笑い話にすることによって必死に落ち着きを取り戻そうとしているのである。
 95年の阪神淡路大震災のとき、大阪に住んでいる私は第三者として震災を見ていた。被災者がつらいと分かっていても、そのつらさは想像に任せるしかできなかった。自分の経験から言えば、地震の痛さは経験しないと実感できない。被災地の状況を判断するとき、自分の日常的な基準に基づくのではなく、現地発信できる被災者の声を取り入れてほしい。そうすることによって、非被災者との交流ができるのではないだろうか。


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター