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Memorial Conference in Kobe V 〜 あなたの体験

私の震災体験
東田 せつ子

 近くに住む息子のアパート(2階建、下2戸、上2戸)が全壊し、彼の生死がわからなかった。屋根瓦をのけて探しに入った夫が、子供の顔の上に乗っかっていた天井板の上に立ち、探した事も。屋根裏の砂が息子の口を塞ぎ、「もうだめだ。このまま窒息する、、、、」と目をつぶったという彼。そのすぐ頭のわきに太い天井のハリがあったという。
 救出までの長時間、そこらをただようガスのにおい、その他の恐怖で居ても立っても居られなかった私の胸の内。大きな音をたて低空で旋回するヘリに腹が立ち、「ここのケガ人を病院へ運んで!!」と聞こえもしないのに叫んでいる私。(この地域は全滅地帯だった。)
 安全な場所を求めての途中、民家から突然大きな炎が吹き出し危うかった。(左どなりがガソリンスタンド。)ようやく安全と思った場所、須磨警察署の内部はパニック状態。ここで教えられた病院は、まもなく火の海の中。この場所からいつもは5分位で行ける他の病院に、1時間程かかってたどり着き、私の目にしたものは、明りの消えた暗く広い待合ロビーに横たわった人達がいっぱいで、足の踏み場もないとはこの事かと思う。ただ医師のペンライトだけが点滅し、一瞬の出来事に声もない人々、地獄をみるとは、この事かと思う。
 避難所は須磨高体育館。昼夜、騒々しさにねむれず、2〜3日後公園で暖をとる被災者が息子のアパートの戸板や柱を引き抜いては燃す。(公園に一番近いのと、完全につぶれていたので。)そのうち中からめぼしいものが見えてきて、1日何回となく自転車で足を運び、坂を登り下りした。
 食事の悪さ、身体的疲れなどで1週間後、避難所トイレの前、つめたい廊下で私は意識を失う。一つ山越えした病院へ救急車で運ばれ、10日間入院。この時、始めてお風呂に入れてもらった。(それまでは電気炊飯器でお湯を沸かし、身体をふいていた。)
 自転車で行き来している途中、和歌山ナンバーの車の人から軍手や下着を頂いたりとか、うれしかった事、悲しかった事がまだ多々あるけど、この辺で筆をおきます。
 何年たっても、この時の事を想い出すと涙があふれてくる。

追.我が家の大変な様子は書けなかった。


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター