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Memorial Conference in Kobe V 〜 あなたの体験

5回目の神戸証言
横山 千鶴子

 地震で家は倒れても体は無傷だった私が、罹災後5年近く経た今、車に跳ねられ2度目の転院先「神戸リハビリ病院」で忍従の日を送っている。地震翌日から神戸地区は車に埋め尽くされた。避難民の乗る車、救助に向う車の放列。電線が垂れ下り家の傾く道を、知人D氏の先導するバイクに、我々老夫婦は自転車で従う。車は大渋滞なのに自転車は小回りが利く。車の喘ぎを外目に坂を上る。
 生徒が山陽電車、地下鉄、バスと乗り継ぎ小1時間はかかるK高校に1時間余で到着。全く被災の跡のない校舎、避難民のいない避難所、水の出るトイレを別世界の風景として見た。全市がやられたわけではなかった!
 D氏の奥様の運転する車が到着せず、同方向の先生の車でD氏宅に行く。平生車で15分の距離に3時間費やす。D家も食器棚の扉が開き、食器がほとんど割れたと伺うが、神戸西北のK街は何事もなかったように静かだ。
 自転車で急坂を上る途中、1本千円で細い焼き芋を売っていた。30時間近く飲まず食わずの避難民をカモにする不逞の輩もいれば、直ちにボランティア活動に見を投じる若者もいる。
 地震直後、被災者一同秩序ある行動をとり、性善説を信じたくなったが、一夜明ければ人間の醜悪面を見せつけられる。
 家を捨てる時、D氏のバイクと我々夫婦の自転車にそれぞれ貴重品、必需品は乗せたが、物欲は案外きれいに消え去るものと知る。D家に夫婦二人丸抱えでお世話になること1週間、多方面の友人・知人から住居提供の申し出を受ける。夫の通勤の便を優先し転居先を決めるが、夫の転勤もあり転々と移動する。
 常に自転車が私の行動力の源泉だった。滝の茶屋駅からわが家方面に向う山陽電鉄が不通で、塩屋の浜に白いレースの縁取りのように打ち寄せる波を眺めたものだ。須磨公園、須磨、須磨寺、月見山と本来なら景勝の地を硝子の破片や家屋の解体作業に脅えつつ、元の地へ行く。罹災証明一枚得るのも難事業だった。30年住み慣れた家の終焉も感傷なく3、4日冷静に見据えた。7月には新居建築の便を考え、月見山駅近くにハイツを借り移住。いつも63、4歳の私が自転車で走る。
 瓦礫、焼跡、廃墟の街。風が吹けば倒れてきそうな家がいつまでも残る須磨寺駅周辺。でも当時身障者ではなく、自分の足で歩き自分の足で自転車を漕いだ。今は松葉杖なしには1歩も進めない。家は4年前建った。家財も衣類も少しずつ買い備え、それなりの平安を得た。すべてを破壊したのは暴走車だ。
 地震以後、余震激しい瓦礫の街を自動車が埋め尽くした。家々を解体、撤去する車。工事の車。救急車、消防車、パトカーが地震の刻を呼び起こすように歳末の街を走る。いつも何かに追われるように自動車が街を駆け巡る。郷土の自然美は地震を契機に失われ、現在3本の自動車専用道路建設に向かって、着々と準備が進む。もはや身障者が通行できぬ都市に変わろうとしている。天災でなく人災だ。


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター