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Memorial Conference in Kobe V 〜 あなたの体験

阪神大震災の思い出
生駒 アヤ

 平成七年一月十七日 午前五時四十六分、淡路阪神在住の方達はあの恐ろしい大震災は、命のある限り忘れる事は、出来ないと思います。我が家は長男夫婦と、孫二人に私たち夫婦の六人家族です。幸いにも息子が、軽い怪我で済み、家は八年前に大改造をした家が、全壊です。度重なる余震で、兵庫高校に、避難致しました。広い学校も見る見る内に、廊下まで避難者であふれています。幸いにも私たちは早かったので、体育館で家族の、居場所だけ確保する事が出来ましたが、其の夜遅く若いお母さんが、背中に赤ちゃんを負んぶし、二、三才位の子どもの手を引き、又片手に大きい荷物を持って、どこか自分たちの住める場所をと、探して居りますが、どこにも少しの余地は、ありません。暫くぼう然と立っておりましたが途方にくれた顔で、立ちさりました。其の時の姿は私は今もはっきり頭に残っております。避難所の生活は知らない方達でも、すぐ仲良くなりお互いに助けあい楽しく暮らす事が出来ました。その内家を見つけて出て行く方があり空間が出来て来ました。私達もじっとしておれません。そんな時大阪の知人から、娘の家が豊中に空室であるから来なさい。との電話を頂きました。「溺れる者は藁をもつかむ。」の諺通り、早速お願い致しました。
 永年住みなれた 我が家を整理して、知らない豊中に行きます。神戸から豊中までの道のりは、窓から見る光影は悲惨なものでした。御影では大きな酒だるがこわれ、青いシートの屋根、鉄筋、木造の崩壊等身が寒くなる想いでした。着いた豊中の家は想像以上に立派な家で家族六印、何の不自由もなく暮らせました。
 神戸ではガスが出ない三月初めイカナゴの佃煮を作り御世話になった方に送る事が出来ました。でも心は早く神戸に帰りたい気持で一杯でした。思えば二月八日小雪の降る中を持てるだけの荷物を持って参りました。九月十五日念願の我が家が出来上がり、帰って来ました。その時の嬉しさは、とても表現出来ません。帰った神戸はまだまだ悲惨なものでした。悲しい事が澤山ありました。孫の友達や近所の私の友人の亡くなった事、又、家の全焼で何一つ出せなかった方等、又、遠くへ行って消息の分からない知人も多くあります。震災五年目を間近に迎えるに当り、亡くなった方の御冥福をお祈りすると共に、二度とあの様な悲惨な震災のおきない事を願う今日此の頃です。


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター