Memorial ConferenceVあなたの体験 DRS
Memorial Conference in Kobe V 〜 あなたの体験

平成7年1月17日午前5時46分自宅での体験
真田 道子

 交通事故で寝たきりの母の介護について、3度目のお正月を迎えて、成人式が過ぎいつもの様に午前4時おしめをかえ石油ストーブが消えて1時間半たった。浅い眠りに入った所、午前5時46分、1階で寝ていた私と母は突然地鳴りがして、ゴーゴーと言う音とともに目が覚め「お母さん!地震!」と言ったとたん、かべが崩れ落ちて来て、ガラスがバリバリと音をたてて割れ、あっという間に、2階が私と母の上に落ちて来て、気がつけば、私は母の上に心臓と頭をかばうように伏せ、その間わずか4秒、私はただ助けて〜と叫ぶばかり。そして次の瞬間、私と母は生き埋めになった。母は私の胸もとの下で横になったまま。私はその上で、ふたりとも胸まで壁つちに埋まっていた。真っ暗で静寂の中、ここに2人埋まっています。助けて〜」と叫び続けたが、返事は何ひとつかえって来なかった。どれくらい叫んだのかわからないが、声がだんだん出なくなるのに気がつき、ダメだと思った。
 私の胸もとの下にいる母に「大丈夫!息しているか!」と聞き、かすかな声でうなずいた母に「深く深呼吸して、絶対死んだらダメよ!!絶対にここから助けてあげるから」と必死で言葉をかけていた。その時、真っ暗の中、私と母のそばでガスの臭いがしてきた。もうこれで死ぬのだと思った。
 でもその時、死ぬことを思ったとたん、絶対に生きてやる、このままでは死ねない、母を連れて…と思い、何とか冷静にと自分に言い聞かせた。
 私と母は、年末に買ったソファの横で寝ていたため、そのソファの隙間30cmの所で胸から下は埋まって息をしていた。
 まず私は何とかしなくてはと思い、右腕が動くことに気がつき、真っ暗な中、右手を手探りするとガチャガチャ、バリバリと言う音がし、すぐにガラス破片だと分かった。
 ただどの様にしてここから出られるのか、出たらいいのか考えた末、埋まっているのだから上にあがろうと思い、まず30cmの所で胸から下が埋まっている私の足を、自分で手を地面におさえつけるようにして、1本1本ぬき、母に「絶対に死んだらダメよ!!生きるのよ!!深く深呼吸して」と言い続け、1m以上あがり、私は隙間を見つけ、その隙間を手で少しずつ広げて、体1人ぐらいの穴をあけ、はじめて明りが見えた時、空はもう明るかった。
 母に「助けてあげるから生きてよ!」と言って、私は余震がくる中、まくらを母の頭の上にのせて、もう一度その1m先の方を見ながら叫んだ。
 「誰か助けて下さい!」と何回か叫んだ。すると男の人の声で「真田さんですか!」と聞こえた。私は必死で「真田です」と言い、「母とふたり埋まっています。私は大丈夫だけど、母が大変なんです。助けて下さい。」と言うと、男の人は「僕はとなりの後藤ですけど、助けに行きたいけど僕も今タンスに足がはさまって動けない。足が抜けたらすぐに行くので頑張ってください。」と返事がきた。母に声をかけながら待ったが、その後男の人の声はかからなかった。
 そして私は母を穴の中に残して外に出ることを決意する。母に「助けてあげるから深く深呼吸していてね」と声をかけ、後ろ髪を引かれる思いで外に出た。すると人影はなく、まるで死人のような街であった。私はすぐ誰かいないかと探し、向こう側に男の人が立っているのを見つけ、近づいていった。自分がパジャマのまま血が流れて素足で足からも血が流れてボロボロにさけたパジャマ姿の私を見て男の人はびっくりした顔をして私に「大丈夫ですか」とたずねた。私は母のことを言い、指で自分の家の方を指し、その男の人をひっぱって途中もう1人、若い男の子がいたのでその人にも声をかけ、ふたりの男の人を自分の家つまり母の埋まっているところまで来てもらった。しかし、最初に声をかけた男の人はつぶれた家の酷さを見て、腰がぬけ穴の前で座り込んでしまった。私は若い男の子とふたりでもう一度母の埋まっている所まで行き、一緒に一、二、三と言って、母を埋まっている所から抜こうとするが、なかなか抜けない。母に「足などなかっても生きていける。足を動かして〜」と必死に声をかけるが母は「もういいから。私はいいから。」と小さな声でつぶやく。私と男の子は余震が続く中、最後の力を振り絞って母をひっぱった。そして母が穴から抜けた時、下半身はおしめが取れて素っ裸のまま、やっと生き埋まった所から抜け出たと思ったら母の唇は紫色になり、呼吸がおかしくなってきた。私は地面に母を寝かせたまま、自分に血が流れ落ちてきているのにも気がつかず、なげ出ていた布団をひろってきて母に掛け、「もう少しだから頑張って」と言って、車を探しに道路まで出た。すると車で逃げる人達でいっぱいだった。窓をたたいて、「助けて下さい。病院まで乗せて下さい」と言ったが、どの車も私の血だらけの姿を見てびっくりし、「急いでいるので」と言って走り去ってしまった。車をさがしに道路を歩いていると向こうから1台の車が来た。ワゴン車であった。若い遊び人のような男の人がふたり乗っていた。私は前と同じように「助けて下さい。母が死にそうなんです。病院まで乗せて下さい。」と言った。すると二人の男の人達は「じゃ、協力しよう」と言ってくれ、私と母を病院まで運んでくれたのであった。男の人達は今から明石まで友達が大丈夫かどうか心配で行く所だと言っていた。私と母はこうしてようやくお昼頃病院に着いて、まずは命を取りとめたのだった。平成7年1月17日午前5時46分、この日におこった恐さ、辛さ、悲しさは私達親子にとって気力を与えてくれた日でもあり、この出来事は何年たっても忘れることの出来ないほど恐い体験でした。

追伸:病院に着いてドアを開けるまで助かったと思っていたが、病院に入ってから私と母の大変な日々がまた続いたのであった。本当に助かったのは、1月21日午前2時大阪の病院であった。


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター