Memorial ConferenceVあなたの体験 DRS
Memorial Conference in Kobe V 〜 あなたの体験

私の震災体験
中野 由

 平成7年1月17日5時46分悪夢の阪神大震災が起こり、深い眠りに入っていたのか、頭の上に瓦が落ちて来て初めて大きな揺れに気が付いた。我家は廻りの家に押しつぶされ、一階で寝ていた私はガレキの中に閉じ込められた。近くに住んでいた息子にひっぱり出してもらい、外へ出た時には廻りの家はみな倒れ、あちこちから、「誰か来て。パパ早く来て−。」と悲鳴がきこえて来てまるで地獄絵のような惨状だった。向いの家も裏の家も、声のしない家は全部即死だった。後で聞くと、同じ町で亡くなった人は43人にのぼった。古い大きな家は、昔のはりで一家全滅の家もあった。幸い火が出なかったから良かったが、ガスも止まり、電気もなく、さあ、家族5人の食糧をどうしようとまず食べる事からの戦いだ。避難所になっている小学校へ行ってみれば何か食料の支給があるかもしれないと崩れ落ちた43号線の陸橋をまたぎ、階段をよじ登ってやっとの思いでたどりついたが、体育館は家を失った人で足の踏み場が無く、食糧など何もない状態だった。人々はただ茫然と立ちすくんで寒さに震え上がっていた。おにぎりの1個ももらえずトボトボと帰ってくると、近くのスーパーがお金は後で良いからと食糧を分けて下さり本当に助かった。地獄で仏に会った様で、今でもこのスーパーがなかったら私たち家族はどうなっていただろうかと思うとぞっとする。
 それからは毎日、水と食糧の確保にかけずり回り体もクタクタになって疲れ切ってしまった。飲料水は2キロ離れた井戸水までくみに行き、トイレに流す水は夙川の水をくみに行く。1日に4・5回往復すると腕はむくみ、足は棒のようになる。その生活が10日程続き、もうこれ以上は無理だという頃に静岡県の人達が給水車で水を毎日持ってくれる様になった。わざわざ遠い所から来て下さるのが有難く、「寒いのに申し訳ありません。」と言うと、「私たちの所でもいつあるかわかりません。皆さんの方が気の毒です。」と励まして下さったのには頭が下がった。その翌日、愛知の自衛隊員が救援に来たので、裏の家のおじいさんが埋まって出て来ないから見て下さいと言っても隊長の命令が無いと勝手に出動出来ないと動いてくれず、ブラブラと時間をつぶしてジュースを飲んでいる始末。昔の軍隊そのままだと腹を立て、地域の消防団を探して、掘り出してもらったら即死だった。遺体を戸板に乗せ広い道まで出したが、次々と並ぶ遺体も市からの回収車がなかなか来ず、寒い中何時間も遺族の人たちと遺体のそばに立って待った。人々の心も4年経つと助け合いの心を忘れよそよそしくなり人の気持ちの変化、情のもろさの寂しさを感じる今日この頃です。万一日本の何処かで又地震が起きた時に何らかの参考になれば幸いです。


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター