Memorial Conference/V/あなたの体験 | ![]() |
久永 雄介 あの日の朝、私はたまたま起きる時間を1時間まちがえて、早く起きてしまった。すっかり身支度をしてしまってから気が付いた。いまさら寝床に戻るわけにもいかず、着いたばかりの新聞を読むつもりで、ストーブのスイッチをつけ、念の為、テレビもつけてみたが、勿論まだ5時30分になっていなかったので、番組ははじまっていはしなかった。 突然座っていた椅子が飛び上がるような衝撃があって、揺れが始まった。瞬間に「地震だな」と思った。「かなり強い。それにしても、えらく長いな。」と感じた。そして次第に「これはいかん。ひょっとすると、天井が落ちて圧死するのではないか」と言う思いが頭をかすめた。でも不思議にもその時、「死」は恐怖ではなかった。 私には12、3才のころ、米軍の戦闘機の機銃掃射を受けたり、空襲による爆弾攻撃の経験があり、その時の恐怖の方がもっとリアルに「死」を感じさせられた記憶がいまでも鮮明である。 これは、それだけ私が年を取ったことの証左なのかなとあとで思った。 隣の部屋でまだ寝ていた家内を、ドアや襖を無理に押し開けて、倒れた箪笥の下から助け出し、同じマンションに住む義母や、近所に家のある娘や孫達の安全を確認してわが家に集めると、私はただちに自転車を駆って、朝夕の門・扉の開閉をお引き受けしていた小学校へと走った。 途中でそこかしこに、倒壊したり壁や屋根に損傷した家々が目に着いた。しかし町は意外なほどに静寂につつまれていたのが、いまでも強く印象に残っている。 さいわい学校はほとんど無傷の状態で、その後は被災者の避難所として活用されたのは言うまでもない。そして私もまた先生方に申し出て、避難所の夜警などのお手伝いをさせていただいた。家人は、「年寄りの冷や水」などとあまり賛成ではなかったが、私にすれば、「お役にたつのであれば出来ることはなんでも」の気持ちもあった。 全国から寄せられた善意。ぞくぞく集まってきた若者ボランティアの活動に触発されたところもあったが、困っている人に、自分の出来ることをさせてもらうのは当然のことではないかと思うようになった。 私は現在、市内に住む外国人に日本語を教えるボランティア活動に参加させてもらっているが、これもあの震災が気付かせてくれたことである。 |