Memorial ConferenceVあなたの体験 DRS
Memorial Conference in Kobe V 〜 あなたの体験

証言
西田 公夫

 震災から二年余り経った晩春の一日、名古屋のYWCA会館の一室では、支援者達の温かい笑顔に囲まれて、談笑している人達の姿が見られました。
 愛知県へ避難してきた人達の憩の場となる「会」が、やっとの思いで誕生したのです。
 震災に遭った多くの人が、諸種の事情で県外へ避難されましたが、行政当局は「県外へ出た人は恵まれている」と一方的に決め付け、その実態の調査はされませんでした。
 馴れぬ土地で話し相手もなく、加えて酷い情報不足の中で、時には心ない人の「被災者のくせに」との理不尽な言動にも耐えながら、ひたすら帰郷できる日を待ち続けた私達に対して、「勝手に出て行った者の面倒まで見られへん」と言い放ち、不十分ながら被災地では施行された支援も適用されず、それどころか二年近くも放置されてきました。
 幸いにも、困窮する私達の実情を知る人達が、その組織づくりの支援に立ち上られ、、運動は大阪を中心に全国へと広がりを見せましたが、協力を要請した被災地の行政が、把握していた県外被災者の住所の公表を、プライバシーを理由に拒否したため難行しました。
 そのため愛知県では、その事情を新聞に記載してもらい、連絡用の電話にボランティアの学生が交代で張り付くなど、粘り強く活動を続け、半年間でやっと十七所帯の名簿登録を見ることができました。
 他県では、被災者が組織をつくろうにも支援者がおらず、また支援しようにも肝心の被災者の住居が判明しなかったと聞きました。
 「りんりん愛知」と名付けた私達の会も、次第に参加者が増え、名簿登録者の数も五十を数える程になりましたが、百所帯はおるだろうと云われた他の人達には、連絡を取る術がありませんでした。
 集会に参加された方が先ず口にされた言葉は「話し相手がなく寂しかった」でした。
 組織づくりが被災者の心のケアに役立ったのは確かですが、万事OKとはいきません。
 公営住宅の募集が始まっても、仮設優先のため私達への当選枠は極めて狭く、一次から四次までの募集に応募し、全部外れて悲嘆の涙に暮れた人もおられました。
 「帰りたい、帰りたい言うとった主人、神戸の土よう踏まんと逝てしもた」と、沈痛な面持ちで呟かれた老婦人、また「九十二になる母が動ける間に神戸へ連れて帰りたい」と、常々話しておられた年配の女性の母御は、希望が叶えられぬままに亡くなられました。
 この言葉は今でも私の耳朶に残っています。同じ被災者でありながら県外へ出たというだけで、なぜこのような差別を受けねばならなかったのでしょうか。


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター