Memorial ConferenceVIわたしの「災害ボランティア」体験 DRS
Memorial Conference in Kobe VI 〜 わたしの「災害ボランティア」体験

たった2日間のボランティア体験から
千葉県八街市 今井 和代

 地震の日の朝、テレビを見ていた夫は命令も出ていないのに、当然の如く支度を整えて出勤し、神戸へと出発していきました。
 同じ消防職員である私は、「何かしなきゃ!」と思うものの、二人の子どもを抱えて身動きは取れず、ある団体から相談を受ければ、「生理用品、オムツ、粉ミルクを送って」とお願いし、農家の友達には「大根、人参いっぱい積んでいって豚汁作ってよ」と頼むことくらいしかできずに焦れていました。
 1週間後、神戸から帰った夫は「おまえも現場を見てこれからの自分の仕事を考えるべきだ」と言いました。その10日後やっと休暇が取れ、子ども達の協力もあって神戸に出発。地震から半月以上も過ぎているというのに、街は涙も出ないほどの惨状でした。
 「何かしたい!!!」との思いは帰宅してからも私の頭を離れることは無く、日々強くなっていきました。そして、1年半後「復興のイベントスタッフ募集、期間は2日間」に私は飛びつきました。
 8月16日の朝、出発直前に先輩が交通事故で亡くなったと連絡が入りました。残されたご家族のために何かしなければとの思いと、1年半も待ち続けた神戸に行きたい気持ちが頭の中で渦巻きました。そんな時、「俺も救助隊員だ、おまえの気持ちはわかる。早く行け!」という先輩の声が聞こえた気がしたのです。奥様に事情を話し、新幹線に飛び乗って、着いたところは被災者が不法占拠した公園のど真ん中、自称大学生ボランティアという人達が全国から送られてくる救援物資で生活をしている、何とも理解しがたい世界でした。
 「何これ!話が違うじゃない、私は先輩のお葬式まで放ってきたのよ!」とすぐにも帰りたい気持ちでいる私を一緒に参加していた高校生のちいちゃんが「おばさん、ここに住んでいるおじいちゃんやおばあちゃんに喜んでもらえるように頑張ろう!」と励ましてくれたのです。そこには、行政の支援を受けられないお年寄りが肩を寄せ合って生活している姿がありました。それを見兼ねた青年達が夜になると酒とつまみを持って話し相手をするために通ってきてもいました。
 予定の2日を終え、バス停に向かう私を仲良しになったおじいさんは「元気で暮らすんだぞ、旦那と仲良くな。」と優しく見送ってくれました。その時のおじいさんのすててこ姿を私は今も忘れることができません。
 自分の力で立ち直れる人はそれでいいのです。その先に希望をつなぐ力を持つことのできない人をどう支えていくのか、それが大切なのだとこの時強く感じました。
 この8月、私たち夫婦は隣の空き家を無理をして買い取りました。70歳を超えた母と一緒に暮らすために、そしてお年寄りや近所の人とコミュニケーションを持つスペースを確保するためです。
 隣の建物からは、今トンカチの音が響いています。宿直明けの夫が修理費を浮かすために自分で床を張り替えている音です。
 地震の発生を阻止することはできませんが、みんなが自然に助け合って生きることのできる地域社会をと望みつつ、私たちは小さな歩みを続けていきます。神戸は私たちをそんな気持ちに導いてくれたのです。


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター