Memorial ConferenceVIわたしの「災害ボランティア」体験 DRS
Memorial Conference in Kobe VI 〜 わたしの「災害ボランティア」体験

私の災害ボランティア体験
堺市 三上 成子

 阪神大震災後、早や6年も経とうとしているので、その時のボランティアの細かい事は忘れかけてきた。これでは風化され、今後の災害にも役立つ他の方のためにもお手伝いの参考にもならぬと書き記しておこうと思う。
 わが親姉弟がその地区にいるので、5日後にはリュックショッピングカーに肉野菜、コンロ等を入るだけ入れ、重くのしかかる肩を痛めながら、夕方から夜の東灘の大道路を家屋が傾いたり、つぶれた間をぬってゾロゾロと歩いて行ったものです。その後3ヶ月後には灘のボランティアグループに入り、篠原北町、灘浜、王子の各仮設住宅訪問、そこでのバザー開催、生協より参加した六甲アイランドでの焼豚や焼き鳥の販売、教会からの尼崎方面の仮設訪問や西宮での炊き出し、個人的には母校の小学校の教室に入っていた母子との交流であった。
 以上、どれも印象深く意義深いものでしたが、少し具体的に述べてみましょう。4階に居た70代の母親と50代の息子さんの二人で、日に何回となく4階への階段の上り下りで年老いた母と病弱の息子さんは疲れてしまった。母親は王子仮設に入った後、バイクに追突された、もしくは転んで入院、その後ボケも少々出て、疲れとけがもあり、病院を変えて今も入院中とか。この親孝行の息子さんが病弱に関わらず、毎日、毎日病院に見舞い、世話をされているとか。私も病院に物を持って伺った時、日に日に弱り歳を取られた母親を見て、どうしてあげたらいいやらと思うばかりであった。
 真夏の中、暑いのに熱々の焼豚を並んで買われる方々、100円均一のバザー日用品を喜んで両手いっぱい買って帰られる方々、仮設を尋ねると身の上話を、初めて会った私に写真と共に孫のことなどを話し、ストレスや寂しさを紛らわそうとなさる方、冷蔵庫がない、夏服が欲しいなどと相談される方、行くとかえっておやつを出してくれたり、電話やトイレを貸して下さり、反対に慰められ、世話になったこともあった。
 集会所にしたいので外国から送ってくれた大テントを、何日もかかって石拾いや草抜きの整地をして貼り、ようやく出来上がり、2〜3日使ったある夜に大雨風となり、あくる朝、JRの線路に飛んで引っかかるという、とても残念な目にもあった。
 ボランティア同士の会合も何回も開いた。感想、反省をして孤独者を防ぐ、特に弱者と言われるお年寄りや障害者の力になれたか、ダンボールのみのお隣とか、気を使って話も出来ぬ、着替えもしにくい、赤ちゃんも泣かせられない、という人々の気持ちを分ってあげたか、せめて話を聞いてあげられたか、充分相談に乗ってあげられたか、仮設の夏の暑さ、冬の寒さに自分だったら耐えられたか、孤独死にまでいたる孤独な人の心の中はいかばかりか分ろうとしたか、障害のある方が普段以上に不便さのある施設で助けられたか、交通、光熱、水道の断たれた中、私はもし他の地方の町の災害被災地にわざわざ泊まったり、通ったりして行ったでしょうか。行けなかったかもと自分のボランティア精神の不足を反省する。


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター