Memorial ConferenceIV君の証言 DRS
「君の証言」

私の体験談
中村 つかさ (伊丹市立伊丹高等学校)

 本当は平凡で穏やかな朝で一日が始まるはずだった。まさかあんな恐怖で一日が始まるなんて誰も想像してなかった事がついに夢ではなく現実におきてしまった。
 あの時私は12才小学6年生。前日から風邪ぎみだった私はピークに達していた。16日の夜、せきがとまらず少し体がだるい事もあって、母と「明日学校を休んで病院に行こうね。」と約束をして、普段よりかなり早めにねむりについた。けど熱もあがってきたせいか、なかなかねむれず同じ部屋でねていた姉に何回か「しんどい」と言ったことを覚えている。けど4時半頃もうだめだと思い別にねていた父母の部屋に私は向った。その時熱は39度まで上がっていたのでその日は母の布団で一緒にねることになった。そのせいで父をおこしてしまい最初は悪い事をしたと思っていた。父は、その後もねれずリビングでテレビを見ていた。しかしそれがいずれおこるあの恐怖に対して生命の糸をつなげる一歩となった。そしてついに5時46分になってしまった。
「ガチャンバリバリバリ」こんな音で始まった悪夢の時間。私のねていた父母の部屋には、タンスに鏡、何十冊と入っていた本棚があった。その本棚の下には、本当は父がねているはずだった。しかし父は、私がおこしてしまった事でリビングでテレビを見ていたのである。あの時私達一家は、マンションの9階に住んでいた。だからかなりの激しいゆれだった。ゆれが一時おさまり、姉の叫び声が聞こえた。「お母さんつかさがベッドにいない」そんな言葉だった。姉の母の会話が続き家族全員生きてる事を確認した。外ではすでに、近所の人の話し声が聞こえた。急いで避難している様子がうかがえた。私達も避難しなければならない。しかし家のドアがゆがんでしまいドアがびくともしない。けど父は決してあわてる事はなくとても冷静だった。幸いにも姉がろうかの人に助けを求め、外からドアをおしてもらい無事に避難する事ができた。少したってから近くに住んでる祖母のあんぴを確めるために父と姉が自転車で祖母の家に向った。幸いにもお皿などがわれただけで、祖母は元気だったという。私の熱が高いという事もあって、父は一度マンションに帰ってきたあとで私と母は祖母の家に行き避難した。私はその生活があたりまえだと思っていた。いつも通りごはんを食べて、いつも通りあたたかい布団でねて、ごはんも十分にとれずあたたかくねれる場所のない人がいるという事を考えた事があんまりなかった。だけど事の重大さは理解していた。多くの人がこまっている事や多くの人がなくなった事など?。4年たった今でも多くの傷が残っている街で必死で生きている人がいる。同じ経験をした人間として苦しい生活、さみしい生活を送っている人の事を決して忘れては、いけないと思う。


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター