Memorial ConferenceIV君の証言 DRS
「君の証言」

悲しさよりも驚き
藤井 将 (駿台予備学校神戸校)

 当時私は深江南町に住んでいた。六甲道にある父方の実家が火事になり、祖父は全身大ヤケドで病院に、祖母と曾祖母はまだ家の中という電話があったのはその日の昼頃だった。
 両親と共に六甲道まで自転車で行く途中、ひっくり返った高速道路や、人と車であふれる国道二号線、破壊された建物を見てもまだ事の重大さが理解できていなかった。 父方の実家と隣の家、その隣の家は完全に燃えてなくなっていた。この三軒は十年以上前からそこにあり、その姿がこんな風に変わり果てることなど考えたこともなかった。
 祖父と会ったのは夕方頃のことである。肌の色は黒や焦げ茶色、一部皮がベロンとはがれて赤くなっている。髪、眉、まつ毛までも焼けてしまっていたが、この顔に眼鏡を掛ければまさに祖父の顔となる。しかし不覚にも、母が一目見て「アーおじいちゃんや」と言うまで私は気がつかなかった。
 病院へはどんどん怪我人が運ばれてくる。うごめく怪我人、私服のままで走り回る医師と看護婦、車で怪我人を連れて来たが「もう連れて帰ってもいい」と言われて号泣する男性など、色々なものを見てしまった。
 地震の前日まで私は風邪をひいており、コンコンと咳をする度に周囲の人が「大丈夫か」と気遣ってくれた。その日の夜、南の空に本物のオリオン座見えた。
 二日後、曾祖母が焼け跡から出てきた。祖母の遺体は自衛隊や機動隊の人が探してくれたがなかなか出てこなかった。機動隊の人が「全部焼けてしまって出てこないかも」と言った。父と叔父が翌日堀り出したからよかったものの、もし出てこなかったら一体どうなっていただろう。腕が干物のようになり、頭蓋骨が見えていた祖母の遺体を思い出しながらそう考える。
 三人の遺体は三田で火葬した。予想だにしなかった原因で三人同時にあっという間、しかも、「これがかつて人間だったのだろうか」といいたくなる程ひどい姿だったので、身内を亡くした悲しさよりも驚きが先行して現在に至っている。


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター