Memorial ConferenceIV君の証言 DRS
「君の証言」

「阪神淡路大震災」を体験して
中塚 理枝子 (神戸市立本山南中学校)

 忘れもしない。1995年1月17日のこと。いきなり揺れている。私は、なぜか、一瞬だけ、呆然と立ちすくんでいた。お母さんの寝ている頭の方に机が倒れていった。ストーブも倒れて消えた。もういったい何が起こっているのか分からない。お父さんが横の部屋から大声で私達、家族の名前を読んでいた。「だいじょうぶか。だいじょうぶか。」と。真っ暗で何もよく分からない。すごい恐怖感と、不安感がこみ上げてきた。階段で下におりる時も、いつもとちがう感覚だった。じゃりじゃりと、寒くて、とても痛かった。靴もはかずに飛び出した。近所の家や向かいの家なんか、もう3階が2階と合体して押しつぶされた状態になっていたような気がする。隣の家の人の娘さんが家の下敷きになっていたらしく私のお父さんは、必死に上のがれきを、のけようとしていた。私は、その姿を、見てお父さんが危ないと、思った。いつ、また、がれきの山が、変なように崩れてきて、お父さんまで下敷きになるのじゃないかと。私は、「お父さん危ないからやめて。」と、ずっと泣きながら叫んだ。それからいつの間にか、近くの道路に出ていた。通りすがりの人に靴をもらった。冷えた寒い足が暖かくなった。どの道からどのように行ったのか覚えていないけどいつしか公園で、へたりこんでいた。たくさんの人がいた。その時も何が起きたのかもうこの時から、揺れていた時の記憶がうすれて忘れかけていってたにちがいない。それだけに不安感と恐怖感が大きかったからだ。でも記憶は、うすれていっているけど、なぜか、忘れもしていない。そうでは、なくて忘れては、いけなきからかもしれない。どんなに、辛くて悲しくても大人になってまた次の世代に「昔、こんなことがあったんだよ。」って言ってあげなきゃいけない。
 あの地震のせいで、楽しく平和にくらしていたのにめちゃくちゃになってしまった。やりたいことだってたくさんあったのに、それが、こわれてしまった。本当に悲しかった。だから、よけいに忘れては、いけない。大くの犠牲者が、出た。遠くへ引っ越してしまった人たちがいた。でも、「これからも勇気を出してがんばろう。」!!


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター