Memorial ConferenceIV君の証言 DRS
「君の証言」

私の証言
長谷川 光子 (大阪市都島区)

 現在63才の私が、どうしても投稿したかったのは、半世紀前昭和23年6月28日福井の地震で、丸岡町の自宅を焼失し、多くの先生、友人を失いそして、大阪であの激しい揺れを感じた時、あ、全く同じだと思ったからです。ただ、違うのは、夕方と早朝、夏と冬の違いです。
 福井地震の時、私は中学2年で、6、3、3制になって2年目、私達の学校が、第1期生でした。戦後教科書も全部変り、先生方も大変だった事でしょう。丁度その頃理科で、宇宙を習っていて、地球から月へ行くには、「生れたばかりの赤ん坊が飛行機に乗ったとしても、80年はかかる」と例えられたこと。宇宙から見た地球はホコリの様なもの。そして地球は太陽の周りをぐるぐる廻っていて、引力でささえられている等、当時としては神話のような授業でした。そんな時、夕方下校途中、北の方の空が真っ暗くなり、ゴーという音と共に上下にドンと動き、あっという間に家はつぶれ、砂煙が舞い上がり、それから横揺れに激しく揺れ、とても長く感じたのを鮮明におぼえている。手さげは2米程飛んで行き、体はこけたまま立つ事も出来ない。一瞬ああ地球の引力が切れたんだ、と思った。揺れが止まった時、家々から親が子を、子が親を呼ぶ声。私は一目散に我が家の方に向かったが、家々が道路をふさぎ、地面は大きく割れ、穴だらけ。家の近くで5才下の妹と会って、母と弟は畑に行ったと聞き、又、引き返し、家族皆無事と解った時は、薄暗くなっていた。(父は出征中で後に公報が入って死亡。)まもなく銭湯から火の手があがり、下になっている人達が「助けて、助けて」と叫ぶ声が今も耳から離れない。大人達も助けに行くが、大きな柱が、胸や足にかかり、のこぎりは無いかと叫ぶがどうすることも出来ない。火の手がだんだん近くなって、「助けて!!」の声も聞こえなくなっていった。本当に生き地獄そのものでした。
 駅前にたった一つあった映画館に、折り重なるような焼死体を見た時、戦争中はいつも死と直面していたのか、余り恐ろしくなかった様に思う。あの当時でも、3000人余の命が失われ、未だに行方不明の人もいる。今の様にテレビも、ラジオも発達してなく、報道も少なく、長い間、焼死体もそのままだった様に思う。ただ、アメリカからのララ物資で衣類を多少もらった。
 今、日本は平和な時代だけれど、地球上絶対安全地帯って無いと思う。いつ天災が来るかわからない。唯をうらむことも出来ない。
 体験した子供達、大人達、きっと体験しない人達より強く生きると思う。


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター