Memorial ConferenceIV君の証言 DRS
「君の証言」

私たちの深い傷
林 智子 (神戸市立本山南中学校)

 ゴゴゴゴゴーッ。それは、午前5時の出来事でした。床は、ベニヤ板を左右上下に激しく動かしたみたいでした。何が何だかわからなかった私は、とにかくふとんを頭にがぶって自分の身を守りました。揺れがおさまってから、玄関にむかって家の中を歩いていたら、足元に何か箱のような物がいっぱい落ちていたので、私は「あれ?何でこんなにダンボールが落ちているの?」と不思議に思いました。後で気づいたらそれは、ダンボールではなく、タンス2個が横倒れになっていました。
 それから、家を出たら、近所の人のざわざわとした声や小さな子供の泣き声。学校の近くを歩くと、道路はまるで稲妻が走ったように真ん中の部分が割れていたり、おばさんが消防士さんに「助けてください。」と悲しそうな顔をして頼んでいました。私は寒さと恐れのあまり、何も言わずに、ただ母と父の後について歩いていました。
 その日は結局、学校にとまることになって、ガス、電気、水の無い生活が始まりました。運動場には、配給に並んでいる人やテントや車でいっぱいでした。
 その日の夜、教室で寝ていた時、たびたびガラガラッ「○○さんはいますか?」と戸を開けるたび、その音に反応して地震がきたと思って、なかなか眠れませんでした。その日からでしょうか、いろいろと音にびん感になったのは。
 次の日は、3時間も歩き続けました。ちょうど、東灘区から三宮ぐらいの距離でした。足がぱんぱんになっても、ずっと下をむきながらもくもくと、私は歩いていました。あまりにもひどい町の姿を見て、少し泣きそうになった時もありました。何でこんなことをしているのだろう?いつになったら着くのだろうか。「足が痛い。」という言葉は、着くまで全然口にすることはありませんでした。
 でも、よく思う。「もしかしたら、私、死んでたかもしれなかった。」そう思いながら、3年生は終わり、4年生、5年生??と少しずつ震災の時の記憶がうすれていっている。でも、それは単に忘れているのではなく、心が怖い記憶からのがれたいために忘れようとしているのだと思います。


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター