Memorial ConferenceIV君の証言 DRS
「君の証言」

ふるえがとまらない
淨関 養子 (西宮市立高木小学校)

 急に地鳴りがして、はげしくゆれた。
 ねている所には、母のタンスがあったので、父が首にけがをした。でも、がまんし、下に下り出ようとしたが、げんかんでかっていた魚が死んでいて、水ももれていて、くつがびしょぬれだった。母は急いで上ぐつを出し、上着も出して外に出た。
 ななめ前の家はドアがあかなくて、みんなでドアをあけた。
 かわら木中学校にひなんし、トイレも行って、ふと見ると、大きな百しょう家がこわれていたので、ますますふるえてきた。私は、兄のジャンパーを何枚も着ていた。
 家に帰ると電話があり、おばあちゃんちへ車でひなんした。おばあちゃんちは、さらが少しわれたぐらいでびくともしなかったけど、まわりの家、本通りは、つぶれていた。
 母たちは、家にある物をとってくるといい、私はあずけられた。急いで食べ物を買いに行くと、店の中は、人でいっぱいだった。思うだけでふるえた。
 その後いとこたちも来て、応接間、3階、1階とねた。時に、父が水をもって帰ってきたり、兄がもらいにいったりした。
 いろんな人が、水のいらないシャンプーをくれたり、ウェットティッシュをくれたり、おさがりをくれたりした。
 いつも余震があるたび、ふるえていた。食べ物もろくになく、カップラーメンか、たまにおにぎりがあった。
 いつも、母たちは、家に物をとりに行った。子どもたちはいつも留守番で、いつ余震があるか、こわくてかたまっていた。少し音があると、こわくてびくびくふるえていた。母が帰ってくると安心だった。
 幼稚園にいくのも学校にいくようになっても泣いていた。送りむかえも大変で、母はつかれていた。父は首のけがをなおしておらうため、となりの接こつ院に行っていた。
 けがはなおったけれど、家はたたないので、まだ、元の場所でくらせない。いとこたちが帰っても、私たちはずっといた。
 その間でも、余震はあった。兄が友だちを呼ぶたび安心した。そうすれば、遊んでくれて、こわいこともこわくないほどうれしかった。
 でも、余震はおさまらず、幼稚園へ通っているとすぐ泣いた。泣かないと先生とも約束した。先生は、母といっしょにいさせてくれることもあった。
 こわれた家で、ごはんを食べたこともあった。
 地震なんてなければよかったのにと何度も思った。
 でも今は、食べ物にも困らないし、友だちもたくさんできたから、地震に負けずにがんばる。


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター