Memorial ConferenceIV君の証言 DRS
「君の証言」

まけるもんか
山本 理紗 (神戸市立五位の池小学校)

 「グラグラ。」
 このゆれで阪神大震災は始まった。私はその時5才でした。目がさめると、私の顔の上には、タンスの上の人形がおちてきていました。お父さんに足をふまれ目がさめて、ふとんをとられました。私はまだ小さかったので、「なにがあったんやろ。」と心の中でつぶやきました。お母さんのねていた所は、人形ケースがいまにも落ちそうでした。
 6時ごろに、しっているおじいちゃんが、「理紗ちゃんだいじょうぶやったか。」とかけつけてきてくれました。私の部屋は、本だなから本がとびだしていただけでよかったけど、もう一つの部屋は、時計がわれたりしていました。台所は、たくさんの食器がわれ、足のふみばなどありませんでした。そんな大さわぎなのに弟は、なかなか起きませんでした。その日は、とても家にいれそうになかったので、あまりひ害をうけなかったコープの村のマンションのお母さんの友達の家にとまりました。
 それから1ヵ月ほどおばあちゃんの姉の家にいて、それからいとこの家にとまりました。
 いとこの家にいると、朝早くから起こされて、毎朝おなかの上にのられていました。2月ごろになると、自分の家に帰ってようち園にも行くようになりました。
 でもガスつかないし、水はでてきません。
 だからときどき給水車がきてくれて、ようち園にいく前にバケツに入れたりして水をおフロにためました。弟は役にたちません。ペットボトル1本も一人でもちません。だから私は弟の分まで全部もちました。ずーっと不便が続いて、2月も半分ぐらいにいった時やっとガスがつきました。3月になると水もでてきてふつうのくらしができるようになりました。
 私が1年生になった時は、阪神大震災でひ害をうけたので、入学式の時に、お道具バコ、色えんぴつ、ノート、えんぴつとかいろいろもらいました。
 それからちょっとたって、ひ害をたくさんうけた板宿に行って焼けた所を見に行きました。とてもたくさんの所が焼けて、はいがヒラヒラとんでいました。
 おばあちゃんの家のちかくは、家がかたむいていたり、アパートの2階が1階になって、1階は地面にうめつけられていたりしました。
 今は、ふつうにくらしていけても地しんはいつくるか分かりません。私はいつも、とてもこわくてなかなかねつけません。
 だからもう地しんなんて、きてほしくないです。これから地しんがきても地しんになんか「まけるもんか。」


Research Center for Disaster Reduction Systems, DPRI, Kyoto University
京都大学防災研究所巨大災害研究センター