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京都大学防災研究所 Presents

第7回 煖エ 良和さん(京都大学 防災研究所 准教授 ※2014年2月1日より 京都大学大学院 工学研究科 准教授)

「耐震工学に、誇りと志を」(3ページ目/4ページ)
【聞き手 住田功一アナウンサー (NHK大阪放送局)】

阪神淡路大震災

住田)修士課程に進んだときに、実際に大きな地震が起きます。阪神・淡路大震災。震災の直後は、実際にどういうふうに行動されたんですか?

高橋)当時の研究室の先生から声をかけていただいて、地震の約1週間後くらいに、阪神大震災の調査団の一員に加えていただいて、約1週間程度、被災地の中をまわって調査をしました。

住田)どんな調査をなさったんですか?

高橋)まずは、現状を把握するということで、朝いちばんに現地へ出ていって、被害状況を写真等で把握し、夕方もどってきて、ホテルの中でその調査結果をお互い共有して、次の調査をどういう方向でするかということを、もう毎日毎日ほとんど缶詰で行っていました。
 神戸の街っていうのは、中学高校の頃からよく遊びに行くような場所でしたので、わたしの知っていた建物がこれほど無残に大きく壊れるものかと、非常にショックでした。ショックなので、やっぱりたくさんの写真を片っ端から撮りまくっていたわけです。
 それが、1日、2日、3日たてば、かなしいかな、その現状が、当たり前になってくると。このような壊れ方は、昨日、写真に撮ったなというように、どんどんシャッターを押す回数が減ってきたんです。逆になんか変な慣れというんですかね、それがあったということに、帰ってきて写真を整理しているときに気づいて愕然としました。
 しかも京都に戻ってくると、まわりの建物はなにも壊れていないと。その時に、逆にぶるぶるっと寒気を感じたというか、やっぱり壊れたことが当然だと思ってしまった自分に怖くなってぶるぶる震えたということ、京都駅に降りて、その駅を出て、まわりを見渡したときに、そんなことを感じたのは強く覚えています。

 住田)阪神・淡路大震災の被災地に調査団として入って体験したことが研究の原点なんですか?

 高橋)そうですね。そのときはそれほど強くは感じなかったんですけども、それ以降、10数年以上たって、われわれは非常に大きな地震を何度も経験してきているんですけれども、地震を経験すればするほど、実は阪神大震災の経験が、自分にとって非常に大きなものだったと気づきました。
 耐震工学に対する研究をより真剣に取り組まなければならない、そういう運命の中にいるんじゃないかなとまで思わせる非常に大きな出来事でありました。

倒壊した阪神高速神戸線からのメッセージ

住田)実は阪神・淡路大震災のとき、わたしは神戸にいたもんですから、地震が起きた朝、5時46分発生のあと、9時ごろには阪神高速のあそこの現場にいたんですね。阪神高速神戸線、あの橋脚のコンクリートが、はじけて、こなごなになっていて、なかの鉄筋がぐにゃっとよじれてですね。
 そして、あの、いわゆる橋脚が、つぎつぎにこわれて、上にのっている橋げたが横倒しになっていると。
 翌朝にはゼネコン各社の人たちの視察団がもう来たんですよ。そしたらそのゼネコンのプロの人たちが、それを見て「あ〜」って腹の底から声を出してらしたんですね。わたしは市民でしたので、なんでこれが壊れるのっていう思いがあったんですが、土木のおそらく専門家のゼネコンの視察団の人たちは、「あ〜」と言った。その「あ〜」っという叫びはなんだったのかなって、いまだに思うんですが。

高橋)やっぱり日本は耐震工学に対する研究をずっとしてきて、ある程度、もう十分耐震的な検討はされてきているという自信があったと思うんですよね。だからその自信がもろくもくずされるような出来事をみて、本当に心の底からでた声だったと思います。

住田)壊れるはずがないと思っていたということですか?

高橋)はい、そうじゃないかなと思います。われわれいろんな研究を昔からやってきて、壊れないように当然つくってきたわけですから。
 われわれが想定していた、要するに耐震設計で考えていた地震よりも、はるかに大きな地震が来たことは間違いないわけですけれども、やっぱり壊れるということは、その建設にたずさわってきたひとからすると想像できなかった出来事が起きたということじゃないでしょうか。

住田)そのこころの叫びということですか

高橋)そうだと思います。

住田)ちょうど神戸市と芦屋市の境あたりで1本足の橋脚がある、あそこの区間が横倒しになったんですね。あれはどういう仕組みの壊れ方だったんですか?

高橋)ピルツ式橋脚といわれる、少し日本の中でも特殊な構造形式の橋梁でして。

住田)ピルツというのはなんですか?

高橋)ピルツというのは「キノコ」の意味でドイツ語からきているんですけれども、その作り方が柱の上にキノコのかさのようなものをつくっておいて、その上にどんどんと桁をのせていくやり方をとっているんです。

住田)1本足のように見えますが、上はちょっと開いて、横に広がっていますね。

高橋)はい。

住田)あれが、キノコのように見えるということですか?

高橋)まずそれだけを先につくっておいて、そのあとに桁をのせていって、あとは鉄筋でつないでいくというタイプの構造なんです。その構造が当時考えていた地震力よりもはるかに大きな地震をうけて倒壊してしまったというのが実情ですね。

住田)実際に壊れたものを見て、土木や耐震工学の専門家の人は、そこに何をみて、何を考えたと思われますか?

高橋)やっぱりわれわれは、当然、壊れたところばっかりに目がいってしまうわけです。柱はコンクリートがくだけちるような破壊をしていました。
 けれども、実は、その当時の最大の技術的課題であったコンクリートのヒンジ部というところはひとつも壊れていないんです。ヒンジ部とはつなぎあわせる部分のことです。そういう事実も、実は技術者にとっては非常に大事なことなんじゃないかというふうには思っているんです。
 われわれ技術者としては非常に不幸な出来事ではあったんだけれども、ある意味あのピルツの被害からわれわれ技術者が学ばなければならないこととして、自分たちが問題と思ってそれにたいして取り組めば、われわれの心血を注いで取り組んだら、やっぱりそれだけの結果はでるはずだと。
 その当時、たまたま技術者の視点が柱ではなくて、地震ではなくて、その構造物の桁をつなぐヒンジ部が技術的な大きな課題で、そこは非常時でもやっぱり壊れなかったっていうことは、技術者にとってもそれだけの結果は残すことができるんだと、われわれとしては受けとらねければならない。これは非常に大きな教訓じゃないかなと感じています。

住田)つまり、地震、災害でものが壊れたということで、全体を否定するのではなくて、どこの部分は耐えていたから評価できる、ではどこの部分がまずかったのかというをちゃんと仕分けて分析していかなければならないということですか?

高橋)そうですね、やっぱり多方面から検討をすべき対象だと思いますし、ピルツ構造の被害に対しては地震力が非常に大きかったというだけで話が終わってしまうようなきらいもあるように感じていますので、やっぱりいろんな観点からの検討というか、評価というものをすべき対象だなと感じています。



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