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京都大学防災研究所 Presents

第9回 竹門 康弘さん(京都大学防災研究所准教授)

「環境防災学」(3ページ目/4ページ)
【聞き手 住田功一アナウンサー (NHK大阪放送局)】

長良川河口堰問題がもたらしたもの

住田)当時はいろんな環境の問題、治水の問題が起きて、自然と人間との境目はどこなんだっていう議論も高まってた時代ですよね。

竹門)そうです。そのころ、一番社会的に新聞紙上をにぎわせていたのが、長良川河口堰の建設ですね。

住田)河口に大きな閉め切りをつくって、塩分を含んだ海水が上流にさかのぼらないようにするという大きな工事ですよね。

竹門)ただ、当時はそろそろ工業用水はこれ以上要らない、上水も足りてるという社会的状況の中で、じゃあなんであの堰の建設を続けるんだという疑問が、普通の社会の人たちもみんな感じるようになっていたわけですね。

住田)竹門さんはどういう学問の立ち位置でそれを見られたんですか?

竹門)川那部先生は、反対する側の立場で、裁判の証言台にも立たれた方なんで、たくさんの資料が送られてくるわけです。そういうのを研究室で見る中で、私はこの問題に対してどう対応したらいいのかということは、あの当時は全く自分の立ち位置というのが見つけられないでいましたね。どちらかというと、傍観者であって、川那部先生という人は生態学者でありながら、そういう社会的な活動もされていてすごいと。
 どうしたらあんなことが可能なのかというのが、あまりイメージできない状況でした。

住田)ではその環境、そして防災。その防災という観点とは、どのように出会われたんですか。

竹門)1997年に、長良川の河口堰問題と、その根っこは一緒なんですけども河川法の改正が行われたわけです。最後の清流と言われていた長良川が堰で閉め切られることによって、環境の劣化が生じた。それに対する、一つの反省から、河川環境を保全することを河川管理の目的に入れないと駄目だということが、もう社会的にもガンガン言われたんです。
 あの当時の建設省がすごかったのは、他の省庁に先駆けてそれを率先してやったということですよ。これは法律によって決まったわけですから、公務員はやんなくちゃいけないんです。これはもうほんと社会的な革命的とも言える。そのときからですね、日本は変わったんですよ。それに呼応するようにですね、海岸法が変わり、森林法、それから農業基本法が変わったわけですよね。

住田)なるほど。つまり、例えば海岸線、例えば川、ここに実線を引いて、ここから人間が使うところだっていう発想ではなく、そこは半ば点線で、そこに自然があるんだと。それを考えなさいという発想が出てきた。ここに環境防災学の言ってみれば出発点があるんですね。

竹門)出発点ですね。はい。ですから、これは個人がそういう発想で始めたという話じゃなくて、社会的なニーズがそこにあったということですよ。

住田)いろんな公害問題だとか、環境を考えようという運動が高まっていた時期に生まれたわけですね。

竹門)そうですね。

住田)じゃそこにまさに竹門さんは立ち会われたわけですよね。

竹門)まさにそういうことですね。

住田)川と人間が棲むところの仕切りを、大きなコンクリートの壁だけではなくて、いろんな壁のつくり方なども、いろいろ考えなきゃいけないということになってきますよね。

竹門)それだけじゃなくてですね、その時点で、すでに日本には2,500を超えるダムがあって、建設中、計画してるのも入れたら2,700のダムがあるわけです。これは、自然が豊かだった大きな川のほぼ全てにダムが複数あるということを意味します。ということは、そのもうできてしまったその壁をですね、いかに修復、再生していくのかという観点も非常に重要ですね。

東日本大震災

住田)しかし、そうする中にも、日本は自然の中で、いろいろな災害がその壁を乗り越えてやって来ますよね。例えば東日本大震災、大きな津波が海岸線を襲いました。今も復旧を急いでですね、次の防災のステップは何なのかという、みんな走りながらもそのことを考えて、今、行動してますけれども、環境防災学の観点からしますと、これはどうご覧になってらっしゃいますか。

竹門)もともと名取川は、東北大学のメンバーと共同研究をしている場所だったんで、この研究室でも5月には現地に行って、どういう環境の変化が生じてるかということを見に行く機会がありました。
 6月にも行きましたし、その翌年もまた7月に行ってるんですけども、1回目、2回目、3回目と訪れるにつれて、いかに現地の自然が元気になっていったかということを見てきたわけです。もちろんそこには、一掃されてしまった中には、家もあったし、畑もあったし、それ自体は被害なんですけども。

住田)そうでした。ちょうどNHKの中継のヘリ映像が、ザーッと水がさかのぼってビニールハウスなどをなぎ倒していく、あれが名取川の河口域でしたね。

竹門)そうです。

住田)人が住んでました。営みがありましたね。

竹門)はい、そうです。だから、それが失われたことに対する悲しみとか、それに対するその恐れとかということは、当然忘れちゃいけないことなんですけども、全くそれと同時進行的に、その波がなしたこというのは壊しただけじゃなくて、つくったんだということも、同時に私には見えたわけです。

住田)なるほど。

竹門)何が見えてきたかといったら、海とつながった塩湖というのができていて、これは汽水域なんですけども。

住田)つまり塩水と真水とが入り混じる地域にある、塩分を含んだ湖、これが塩湖ですね。

竹門)そうですね。2回目に行ったときには、シラタエビというエビの幼生が、1回網を入れたら、そのー網の中にこうバシャバシャと、見るからに大量にいまして。そして、塩分の薄いところには、ハイイロゲンゴロウというゲンゴロウがこれも無数にいてですね。あとトンボもたくさん飛び交っていました。
 本当に短い期間の間に、そういった生き物が、あっという間に新たにできたその環境を喜んで利用している様子が見えたわけです。ですからそれを見て、この大きな1000年に1度ぐらいの災害というのは、生き物から見たら、もう予定されていたことなのではないかと。

住田)つまり、行きつ戻りつする海岸線の大きな歴史の中の一つの現象だったということですか?

竹門)私たちの先祖は危険であったとしても、そこに資源としての利用というメリットがあれば、そこに住み着くということをしてきたわけですね。けれども、そこが危険であるということを、あえて承知の上で住んでたという面もあります。だからこそそこは仮の場であり、いざというときはすぐに逃げるという仕組みの中で、場所の利用をしてきたんじゃないかと。そうすることによってここから先が陸というように仕切らない、あいまいな場所というのを許容することになっていたんじゃないかと思うんです。

住田)いわゆるグラデーションがあるということですね。

竹門)ええ。それは災害を防ぐ場でもあるし、自然を保持する場でもあると。そういう発想がありうるんじゃないかということですね。



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