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京都大学防災研究所 Presents

第10回 倉田 真宏さん(京都大学防災研究所准教授)

「鋼構造にも、柔らか発想」(2ページ目/4ページ)
【聞き手 住田功一アナウンサー (NHK大阪放送局)】

損傷を受け止め、損傷を明示もする「建物」

住田:建物というのは、わたしたちは今まで「丈夫で壊れない建物」が、地震に強い、良い建物というふうに思ってましたけれども、今の考え方はそういう発想ではないんですか?

倉田:基本路線としては同じなんです。いかに被害を抑えるかと。ただ、設計したよりも大きな地震が来たりする場合があって、その場合でもうまく損傷をうけてやる。そして、うけてやって、その損傷がどれくらいかも明示されるような状態にしておく、その二つを考えています。
 例えば広域の大震災のような状況になったとしても、見た目で被害を受けているから全部使えないというのではなくて、その中でも余力がある建物っていうのはいっぱいあるんですよ。その余力を使って、事業を再開していけばいいんじゃないかと。
 それをするためには、どれくらい損傷があったかっていうのが、きちんとわからないと、判断ができないですよね。それを手助けするようなシステムを、今申しました、センサー機能がついた鉄の板の話だとか、またはITなどのいろんな分野の技術を駆使した電気的なセンサーなどを使って全部モニタリングするような、二つのシステムを今考えています。

住田:災害のあとは無数の建物が傷むでしょうから、そういう意味では専門家が全部チェックしていくっていうのも、もちろんこれも必要でしょうけど、一般の人も危険かどうかって察知できる、この可能性も出て来たわけですね。

倉田;そうですね、その可能性があります。その時に手助けになるようなヒントが散りばめられていれば、その地域コミュニティにとっては大きなメリットがあるんじゃないかと思います。

構造を考えることになった、原点

住田:硬い鋼の研究の中にも柔らかな発想、柔軟な発想というのが求められているんだなと、そういう印象を持ちます。ここからは、その倉田さんが研究の道に進まれた原点、ルーツをたどりまして、今どんな夢を描いてらっしゃるのかなども、お尋ねしていこうと思います。

さっそくですが、年齢は今、三十五歳でいらっしゃると。

倉田:はい、そうです。いい年です。

住田:いやいやいや、まだ若手でいらっしゃるんですが。研究の世界に歩み始めたルーツ、原点は工場にあると伺ったんですが。

倉田:工場といいましても、ぼくが生まれて育った頃は、住居として使われていたんです。もともと、わたしの祖父が、レントゲンの機械を作る工場をやっていたんです。工場はすでにやめていたんですが、その名残が家に残っていたんですね。家が、元工場ということで、鉄骨構造なんですよ。鋼構造。

住田:なるほど。

倉田:そして、工場時代の機械や器具など、いろんなものが揃っていまして、それがみんな倉庫にあったんです。父親もそういう意味では手先が器用な人で、彼は、産業ロボットの制御みたいなことをやっていたんですけれども、土日にちょっと日曜大工をして、いろんなものを直したりしていましたね。
 あと、ぼくの小学校の自由研究といいますか、夏休みの宿題を手伝ってくれたときに、ししおどしを一緒に作ったんです。

住田:水がたまると、ぽーんとはねかえるやつですね。

倉田:ええ。それで、バランスのいいししおどしを作るには、何秒で水がどれぐらい落ちるのかっていうのを計算しないといけないんですよ。そんなことを考えて一緒に作ったのが、ぼくが一番最初に覚えている、自分で作ったものですね。

住田:モノを作る、構造を考えることの原点なんですね。

倉田:そうですね。それにプラスアルファで、小学校の何年かのときに、家をちょっと改修するっていう話があって大工さんが家に出入りされてたんです。それを見ていると、大工さんはいいなあって。すごく手先が器用で格好いいんですよ。ピシッ、ピシッと寸法が決まっていく感じが。ちょっと憧れたんですよね、そのときに。



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