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京都大学防災研究所 Presents

第10回 倉田 真宏さん(京都大学防災研究所准教授)

「鋼構造にも、柔らか発想」(3ページ目/4ページ)
【聞き手 住田功一アナウンサー (NHK大阪放送局)】

阪神淡路大震災、そして留学へ

住田:高校二年生のときに、1995年、平成7年の阪神・淡路大震災が起きます。このときにもなにか、今の研究につながるようなものがあったんですか?

倉田:そうですね、そのときに防災をやろうとか、耐震をやろうとか、そんなことは頭にありませんでしたけども、実家が野田阪神だったので、被害を受けている建物もあったんです。二軒隣の、戦前か戦後すぐにできた古いアパートは、壁がばーんと全部落ちてて、斜め前の家の屋根の瓦も、トタンの屋根から全部滑り落ちてるような状態で。
 そういう意味でみていると、もともと工場だったぼくの家は、古かったのですが、あまり被害がなかったんです。もちろん、揺れたのは揺れたんですけど、被害はあまりなかったんですね。その違いがくっきりと見えたっていうのは、自分の中では、その後の発想に繋がっていると思いますね。

住田:なるほど。大学は京都大学工学部の建築学科に進まれていて、学部時代から鉄骨の壊れ方について研究を始められたということなんですが、そのあと修士課程でイタリアに留学されます。このときの経験が非常に大きかったそうですね?

倉田:そうですね、その後研究の道に進むという意味では、このときの経験がまあ大きいといいますか、それまでは研究の道に進むことをあまり考えていなかったんで。
 大学四年生のときの研究室配属で、鉄骨構造、鋼構造の研究室に入りまして、そのときの恩師が中島先生という方なんですけど、「きみ、イタリアに興味ないか」って聞いてくださったんです。

 実はイタリアにパヴィアという街があって、ミラノから30分くらいのところなんですが、そのパヴィアにEUが出資してつくる大学院大学ができると。その大学院というのは、イタリアだけでなくて、EUの学生も、南米の学生も北米の学生も、たとえばアジアも、インド、中国とか、いろんなところから学生が来て、また先生も、世界中の先生に六週間単位で滞在してもらって、年に八クラスくらいを交互にやっていくシステムだったんです。だから一つの期間に一つの科目を習う、集中講義みたいなのがずっと続くような大学だったんですけど。

 そこにいて思ったのは、他の学生も、日本は世界的にも地震がすごく多くて、耐震工学も素晴らしいだろうと、でも、すごいのは分かるんだけれども、実際に、どんなことをしているのかは、みんな分からないんです。たとえば、日本人の先生の名前をあげてみようと思っても、ほとんど名前をあげられない。すごくギャップがありましたね。

他国の学生の交流から生まれる、思い

住田:他の国の学生たちと交流して、一緒に勉強して、かなり刺激を受けられたそうですね。

倉田:そうですね、日本の京都大学で学部生をしていた時は、鋼構造のことを友達と語るとか、防災のことを語るなんてあまりなかったんですけど、その大学院に行くとやっぱり夜な夜な、話をするんですよね。
 授業の内容についても話をしますけど、それだけじゃなくて、「ぼくは将来、耐震構造のコンサルティングをやるような会社をやりたいんだ」とか、「ぼくの国ではまだまだ進んでないから、いろいろ学んだことを国に持って帰って、それを役立てて社会を良くしたい」、そういった夢を語ってくれる子が多かったんです。でも、自分は夢を語れないなあっていう(笑)。

 少しは語れるんですけど、そんなに野心はないぞというのがぼくの中では、ちょっと負い目じゃないですけど、ちょっと引っかかるものがありましたね。なにが違うんだろうなって、この人たちと。

住田:倉田青年はそのとき、どうしようと思ったんですか?

倉田:英語でちゃんと議論ができるようになるっていうのは、英語ができるだけではなくて、その分野についての知識が必要だし、ある程度知識があって、普段からそういうことを議論するような環境にいるからこそできることなんです。だからできるだけ話しかけていきました。
 たまたまみんな寮に住んでたので、寮に行くと、宿題とか期末試験が終わったりしたら、さあ一緒に飲むぞと、二リットル入りのワインを買って来て、それで飲みながらみんな話をするんです。

住田:イタリアですからね、ワインでね。

倉田:そうですね、ちょっと飲むと言葉が出てくるんですよね、不思議なもので。そういうところで、できるだけ、自分から話しかけていく。コミュニケーションをとっていくということをやってみました。そのときはまだ学生ですけども、国に戻って起業家になる人もいれば、そのまま大学に戻って先生になる人もいるんです。
 それで、自分もそういう人たちと、将来もう一度やりあいたいって思いました。研究の道に進んで、自分も大学の先生になれば、また将来、彼らと話し合う機会ができるんじゃないか、そのときは負けないぞ、という思いがそのときにできました。

さらに研究を深める留学へ

住田:そして博士号をとるために、今度はアメリカに行かれたんですよね?

倉田:そうですね、そのなにか、もやもやしたものを、どうにか、どこかぶつける場が欲しかったんです。もっとどこかに飛び込んでいきたくて、自分をちょっと追い込んでみようと思って、アメリカにいくことを考えました。

住田:どちらに住まわれたんですか。

倉田:アトランタにあるジョージア工科大学というところで学びました。アメリカの南東部ですね。ちょうどアメリカの工科大学の中では、三大TECと呼ばれているものの一つに行きました。そこで鋼構造関連の研究をされていて、これから伸びるぞという先生がいらっしゃったので、そこに行ったんです。

住田:そこでも鋼構造を?

倉田:そうですね、今度は耐震補強の仕組みを考えて、それをシュミレーションしてみて、さらに実験で検証するということをやりました。
 通常の耐震補強といいますと、その多くは建物をがちがちに固めるために、重機をつかったり、火気をつかったり、クレーンをつかったりと、大規模なことをやります。そのやり方では、建物の中で仕事を続けたり、社会活動を続けることが出来ない。その意味で、いったん建物から引っ越し、また戻ってくる費用が発生しますよね。

 耐震補強のために、生産効率が落ちてしまう。耐震補強に付随するいろんなマイナス面が出てくるんです。耐震補強だけの費用に、そうしたプラスで発生してくる費用がどれだけなのかって考えると、かなり大きな額になる。
 そこを抑えてやることで、もっと気軽に、耐震補強とか、耐震補修ができるようなことができないかと考えたのが、建物の中で弱いところだけを、部分的に、小規模に補強することで、全体としてのインテグリティと言いますか、健全度を保てるようなものにしたいというのが、今考えていることなんです。

 今ある建物への負担を減らしてやるとか、そのために違う経路の力が違う経路に伝わるようなものをつけてあげるということ。そのために必要になる部材も、「重機は使わない」という制約をつけて、エレベーターで運べる程度の軽量の部材にしようと考えました。
 もとの骨組みに繋ぐ接合方法も、熔接などは使わない。また、できるだけ利用用途を変えたくないので、開口部はできるだけ塞がないようなスレンダーな形状のものを使うと。そういった発想で補強方法、仕組みを考えました。



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