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京都大学防災研究所 Presents

第21回 宮本 匠さん(兵庫県立大学 専任講師)

「人々が輝く、ときめきの災害復興論」(3ページ目/5ページ)
【聞き手 住田功一アナウンサー (NHK大阪放送局)】

大学時代の運命的な出会い

住田:そして、この後大学に進まれまして、大阪大学人間科学部に現役で合格されます。読書はこちらもまた続けてらして、いろいろ思索されるわけですけれども、大学3年生の5月に運命的な出来事があったと。

宮本:そうですね。それまで僕はすごく頭でっかちの人間で、本は大好きでっていうのがあって、なんか社会の問題にかかわりたいんだけど、なんか悶々としてたんですよね。それで、大学、2回生の秋にこの中越地震っていうのがあって。同級生たちが、現地を支援しようっていうグループを立ち上げて、通ってたんですね。

住田:つまり、この辺りは2004年ですから、もう阪神淡路大震災から10年近くたって、学生たちの中には、いわゆるボランティアサークルがあったり、ボランティアっていう動きは根付きはじめてましたよね。

宮本:でも、僕それも関心を持ってなくて、ボランティアってなんかお利口な奴らがやってんねやろみたいな。まあ斜めから見てたんですよね。みんなが昼休みにお弁当を食べながら、ミーティングしてるんですけど。

住田:そのボランティアのグループが・・・

宮本:ボランティアのグループが。それを、ちょっと離れているところで見ているみたいな。それで、そのサークルが、女性が多くって、中越の現地で引っ越し作業をしないといけないっていうのがあって、男手がいるっていうので、僕が声をかけられて。
まぁまぁ、僕はスケジュールが空いてるから行くよって。それで、初めて中越に来たのが地震の翌年、2005年5月だったんですね。

住田:これが大学・・・

宮本:3回生ですね。

住田:3年生の春ですか。はい。

宮本:2日の予定で、当時、夜行列車で来てですね、仮設住宅にこう、いろいろチラシを配ったりしてですね。
まあ、こんなもんかみたいな、皆さん大変そうだなっていうくらいで。それで帰るっていう日の夜に、たまたま神戸から派遣されてこっちに来ていた鈴木隆太さんっていう人に会って、夜行列車までの時間に飲んでたんですよ。それで、「今日は隆太さんは何やってたんですか」って聞いたら、「いや、村人と今、道を直してる」と。
大きく崩落、崩壊した場所があって、そこはもう重機じゃないと直らないんですけど、そこに重機をやるための道ががたがたで、そこを、役場を待ってたらもういつになるかわかれへんから、村人が生コンクリートを現物支給してもらって、自分らで直すと。

住田:行政じゃなくて、自分たちで直そうと。

宮本:それで、その日は一日目で、型枠を作ったと。明日はいよいよ生コンを流すんだと。めっちゃ面白そうやなと思って、「じゃあ、僕いきますわ」って言って、1日滞在伸ばしたんですよ。
それで、次の日、行ってみたら、もう80くらいのじいちゃんが鍬とか持って待ってて、みんな生コン作業なんてやったことないんですよ。「若いの頼むぞ」とか言われて、「じゃ、わかりました」とか。それで、作業が進むうちにですね、ぼくが一番使い物にならないっていうことが明らかになるんですね。
もうね、80代のじいちゃんたち、やったことないのに、見事に生コンを平らにしていくんですよ。鍬とか使って。

住田:やっぱり日頃から農作業とかいろいろなさってるからでしょうかね。

宮本:そうなんです、あるじいちゃんなんか、こう、ベニヤ板持ってきて、ベニヤの板でこう、たたくんですよね。すると、生コンが平らになるんですよ。「なんでそんなん知ってるんですか」って聞いたら、「いや、田んぼを平らにするときに(あぁ)、やる」と。
だからその知恵なんですよね。この人達すごいなっと思って、それで一気にですね、引き込まれまして。ぼく、日本海側で、高齢化が進むところが地震に遭ってっていうので、すごくなんか暗ーい雰囲気なんやと思ってたんですよ。
もう、それがですね、作業の時も冗談が飛び交うし、その後の上り酒で、お酒を飲んだら、爆笑の連続で、「あぁこの人達すごいな」って。そのたくましさにほんとに魅せられて、「あぁ、もっかい会いたいな」って思って、通いだしたのが、最後でしたね。

「ない」から「ある」へと変わる語り口

住田:3年生の秋にはゼミの配属、その後決まっていくんですけれども、ここで選んだのが?

宮本:災害ボランティアの研究とか実践をされている渥美公秀先生のゼミに入りました。

住田:じゃあ、その先生のちょっと背中を押すのもあって、現場で何を見てくるか、何を見るのかっていうことに進み始めたわけですね。さっきは、道普請でしたけれども、それ以外にもいろいろあったんですね、ここでは?

宮本:そうですね、僕が最初にやったことは畑を借りるってことだったんで。

住田:畑を?借りるという?

宮本:あの、この村にですね、この大阪弁の人間がこう通うと、絶対怪しまれるなと思ったんですよ。それで、村に通うきっかけがほしいなと。村の人にやっぱり話を聞きたいなと思ったんですね。
畑を借りたら、草抜きに来てますって言って来れるなと思って、それで畑を貸してくれって。まぁ、唖然とされましたけどね。ほんまこっちは水がねぇ水がねえって言ってんのに、お前畑貸してくれってどういう話だと。でも、それはやっぱすごいきっかけでしたね。

住田:あの畑をちょくちょく見ては、いろいろアドバイスしたり叱咤激励があったんだそうですね。

宮本:そうですね。まあ、とにかく僕ね、いっぱい笑われてたんですよ、何もよくわかってないって。一度、梅雨の時期に雨が降り続いて、それで草抜きが出来なくて、草ぼうぼうになったんですよ。
ああ、またこれ怒られるなっと思って、雨あがったんで、必死でこう抜いてたら、なんか下からこう、村人がやってきて「ダメだ、ダメだ」みたいな。あれ、なにやろな・・・と。実は、雨上がりに草抜きをしてもすぐにまた生えてくるんですって。根っこが生きてるから。それで、お前バカかってまた笑われたり・・・

住田:宮本さんは、あれですね、村の人達と、この単になにかを吸収しようじゃなくて、人とのやり取りをすることで、なにかを掘り起こしていくっていう、そういう手法ですね、これはね。

宮本:そうですね、普通支援者って、なんか状況を変えようとすると思うんですけど。いい方向に。僕の場合はそうじゃなくてですね、むしろなんていうんですかね。
こっちの人ね、僕が、最初関わりだしたときって、みんなとにかくこの村には何もないっていうんですよね。学校もない、子どももいない、病院もない、もうないないづくしなんですよ。
僕にはそうは思えなくて、だから僕が当時やったことって、とにかくお話を聞く、それでお話を聞くと、やっぱいっぱいあるんですね。こんなおいしいきのこがあるとか、こんな珍しい山野草があるとか、こんなおいしいクルミがあるとか。

それで、それを実際に見ながら、やっぱり僕から見たらすごいこといっぱいあるんですよ。すごいっすねとか、おいしいですね・・・で、その僕が驚いたりですね、びっくりしたりしてるのを見て、村人が自分たちに何があるのかっていうことに、こうなんか気づいていったんですね。
だから、何が無いっていう語り口から、何があるっていう語り口に変わっていく。そこに聞き手として、受容的にかかわる外部支援者。まあ、もはや支援者なのかもよくわからないですけど、そういう外の人がいる。そういうやり方ですね。



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